慈悲の心の観音様 力の権化の仁王様 煩悩断ち切る お護摩の浄火

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芝山仁王尊の歴史

芝山仁王尊の歴史

名 称 天應山 観音教寺 福聚院(関東天台旧制伴頭拝領寺院)
宗 派 天台宗
本 尊 十一面観世音大菩薩
芝山仁王尊

 

天保十二年提出の分限帳添付の絵図面の控

 

明治二十六年、精観堂に依り製作された境内鳥瞰図である。

天保十二年提出の絵図面と対照すると、当寺の概要を知る事が出来る。 

 

 

芝山仁王尊の歴史

当寺は比叡山延暦寺を御本山とする天台宗寺院で、正式名称を天應山観音教寺福聚院と称します。山号の天應山は創建が天應元年(781)と云われることに由来します。

 

1.藤原継縄の創建

日本年代記によれば、人皇第四十九代光仁天皇の宝亀十一年(780)正月、平城京が雷火に襲われ、皇室擁護の寺院が多く焼失したので、諸国に命じて新たに仏寺を建立せしめたとあります。丁度その時、征東大使として蝦夷平定の任にあった中納言藤原継縄朝臣がこの布令の下に当地に寺院を建立し、御本尊として奉持して来た十一面観世音大菩薩を奉安したのが、当寺の始まりであると伝えられております。

 

慈覚大師円仁による中興から現在まで

天長二年(825)、後に第三代天台座主となった慈覚大師円仁により中興され、次第に甍の数を増やし、近隣に八十余宇の子院を置くに至ったと伝えられます。その後、治承年間には千葉介平常胤の崇敬を受け、許多の仏田が寄進され、永く祈願所として栄えますが、秀吉の小田原攻めの影響を受け、当山も全山灰土と化したと伝えられます。

やがて江戸時代に入りますと、徳川幕府の庇護の下、十万石の格式を持つ伴頭拝領寺として関東天台の中核をなす寺院となりました。特に火事泥棒除け・厄除けの仁王尊天として大江戸の庶民の信仰を集め、いろは「四十八組」の町火消が纏を先頭に競って参詣したと伝えられます。

現在でも有名な新門辰五郎の旧「を組」の記念碑が境内に建っており、その信仰が今日迄連綿として伝えられている事が分ります。